5話 「救い」(前編)
―――――語り明かしているうちに、すっかり太陽は傾き、遂に地平線の彼方へとその姿を隠した。
すなわち、夜の時間がやってきていた。
「はー、すっかりこんな時間になってしまいましたね」
ああ。こうして語っていると時間があっという間に過ぎていくなぁ。
「悠久の時を生きたひととは思えない台詞ですねえ」
いやいや、悠久の時を生きてきたからこそ、だよ。
楽しいひと時というのはあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。
「...そう、ですねえ」
溜息を吐くようにそう言うと、彼女は天を仰いだ。
つられて私も空を見上げる。
遮るものが何もない、満点の星空。
今日はどうやら、月は出ていないらしい。
そういえばそうか。
今日は新月だったな。
「新月、ねえ...。そういえば、あでりーさんは覚えていますか?新月って、東方では―――」
机の上に広げられたアルバムを、彼女は注意深く手繰っていく。
一つ一つ。
思い出をかみしめながら。
「――――あぁ、いましたね」
「おや、あでりーはんやないの。お晩どすー」
仮住まいとしている倉庫から起き抜けて、何か飲み物をと思い酒場に顔を出した私を迎えたのは、にこやかに笑みを浮かべた朔だった。
「ああ、朔殿。おはよう」
思わず、今が何時かも忘れて挨拶をしてしまった。
朔はけらけらと笑う。
「もう夜ですえ?あでりーはんはまた夜更かしされたので?」
「ん?あぁ、ちょっと深夜まで星の観測をな。つい、今しがた目が覚めたところだ」
「ほえー、占い師いうんは、そういうことまでしはるんですなぁ」
星占いとかかな?と、興味津々な顔を向けてくる朔だが、口の周りに薄いピンク色をしたものが残っており、その周囲には無数の樽が転がっている。
ある種、異様な光景が周囲に広がっていた。
またいちご牛乳を樽で一気にいったのだろう。
健啖な事は良い事なのだが、摂取する糖分量にむしろ心配になってくる。
「相変わらず...なんだ。良い飲みっぷりだな?」
「まだまだいけますよってにから。ティポはん!いちご牛乳の樽追加で!あとエールをあでりーはんに!」
朔が威勢のいい声を上げると、厨房の奥から慌ただしそうながらもオーダーを受ける店長代理殿の声が響いてきた。
「む?エールか。ありがたく頂くが...」
「どうぞ飲んでおくれやすー。...乾杯しまひょ」
「あぁ、乾杯」
「かんぱーい」
エールで唇を湿らせる。寝起きの身体にいきなりアルコールというのもどうかと思うが、喉が渇いていた私は、つい、はしたなくも一気に飲み干してしまった。
喉が渇いているときに飲むエールは、なぜ美味いんだろうなぁ、などと益体もない事を考えてしまう。
「おお、あでりーはん良い飲みっぷりやねえ。ティポはーん!エールもう一杯!」
にこにこ、と笑みを浮かべて、追加をオーダーする朔。
「いいのか?」
「そのう...」
訊けば、すいすいと視線を泳がせる朔。
まぁ、大方...。
「ちょっと、あでりーはんに相談に乗って欲しいんやけど...」
意を決したように一つ頷くと、私の眼を見てそう言ってきた。
思わず、苦笑いをしてしまう。
「だろうなぁ。ま、よかろ。飲んだ分ぐらいは話を聞くぞ」
「呪い?あぁ、いちご牛乳の呪いというやつか」
深刻な顔をした朔の話は、その身を蝕んでいるという呪いについて、だった。
以前、未来で自分が生きているのかを占ったことがあったが、それでもなお、不安が拭えないということだ。
まぁ、それはそうだろう。
いくら他人に「未来では、ちゃんと生きているぞ」と言われたところで、不安は拭いきれないだろう。
それは、何も私が信頼されていない、と言う訳ではない、というのは。
彼女の表情を見れば分かる話だ。
彼女は言う。
一族の人間は皆、30歳かそこらで死んでいるのだと。
彼女は言う。
自分の見立てでは――――
―――――もって、5年。
それがどれほどの覚悟で口に出された言葉なのか。
それは私には分らない。
基本的に、私は人のようには死ぬことができない。
故に、死の恐怖というものが分からない。
ただ。
彼女の笑顔が見れなくなるのは、とても寂しいと。
そうも思うのだ。
「...5年、か」
5年。あと5年以内に、「それ」を何とかしなければならない。
これまで一族が散々解呪を試みて、失敗を重ねてきたそれを。
もはや諦観のうちに、衰弱死することを受け入れるほかなかった、それを。
だが。
「―――あでりー!いるか!?」
光明なんてものは、意外なところから差し込むものだ。
珍しく、慌てて私を呼ぶ声が聞こえた。
転がり込むように酒場へ入ってきたのは、黎だった。
「黎殿か。やあ、待っていたよ」
グラスを軽く掲げて出迎える。
概ね、何が起きているのかは、この「眼」で把握していた。
「待っていた...?ああいや、違う!緊急の案件なんだ!」
「それも把握している。『見つかった』のだな?」
「!」
そう告げれば、黎は驚いた表情を浮かべた。
しかし、次の瞬間に理由に思い至ったらしく、にやりと笑みを浮かべる。
「話が早くて助かる。その件でルシファーがあでりーと話したいと言っている」
さすが、としか言いようがない。
依頼してからそんなに時間は経っていないはずなのだが。
ともあれ、お招きとあらば出向くに吝かではない。
彼の顔も、久しぶりに見たい事だしな。
「分かった。すぐに向かおう」
するり、と椅子を降りると、簡単な身支度を整える。
地獄へ潜ると言うのは随分と久しいことだった。
とはいえ、せいぜいが水場に落ちた時に着替えが必要になるくらいしか思いつかなかったが。
そのあたりの物は、いつも提げているポーチの中にすべて収納している。
このまま向かっても問題なかろう。
「黎はん?それにあでりーはんも...そんな血相変えて。何かあったんかえ?」
ふと、呼び出しに気を取られていたせいで、朔への説明をしていない事を思い出した。
「ああ。ちょっと頼まれていた探し物が見つかったらしくてな。少し出てくる。
「え、ええ...それは構いまへんけども...」
早く、早くと急かす黎を片手で制しつつ、言葉を続ける。
ええい、確かにルシファーからの呼び出しなど珍しいにもほどがあるが、少しは待たんか。
「先ほどの話については、また後ほど話そう。ごちそうさまだ。...では行ってくる」
そう告げると、黎を伴って店から出る。
「朔、話の途中で悪かった。今度奢るから!ルシファーからの緊急の呼び出しなんだ!」
ドアをくぐりながら、黎は後ろを向いて朔へ謝っていた。
「えっ、えっ?ルシファーはんから!?なんやそれ、おっとろしい話ですわ...」
びっくりした声が酒場から響いてくる。
そういえば、朔はルシファーと面識があるのだったか。
であれば、彼からの呼び出しと言うのがどれほどの異常事態か、分かってくれることだろう。
なんとなくおかしくなって、私はくすくすと笑った。
身支度を整えると、私と黎はさっさと魔界へと飛び込んだ。
次元がずれた魔界へと飛び込むのは、常人には不可能だ。
だが、私はおかしな事に星の霊脈を通じての直接進入が可能だし、黎はそもそもが冥界の住人だ。
お互い、わざわざ確認するまでもなく。
それこそ造作もなく魔界への侵入を果たした。
さらに、立て続けに、今度は西洋の冥界ーーー天国と地獄の入り口まで転移した。
何故二度手間を踏むのかといえば、ルシファーのいる西洋の冥界というのは魔界の下層に位置しており、つまりは「かなり深い位置」に存在するのだ。
これは物理的に、というわけではなく、位相としての問題だが。
このため、一度魔界を経由する事で、比較的簡単に冥界の入り口まで潜ることができる。
転移した先は、当然のごとく冥界の入り口。
私たち二人は、お互いに頷きあうと、同時に駆け出した。
私は走って。
黎は飛翔して。
さて、久々の地獄巡りだ。
それにしても、と、走りながら黎が呟く。
「あの話だけでよく分かったな」
なんだ、そんなことか。
「ただ偶然、未来を見ていただけさ。今日のことも、そしてこれからのことも」
そう言ってやると、きょとんとした顔をしたあと、ニヤリと笑みを浮かべた。
「って事は、だ。この件はーーー」
「それは言わぬが花だろう。今回の私は否応なしに『出来ること』が限られてしまう。頼りになるのはお前たちだぞ」
「ーーーーっ、マジか。そりゃあ、俺も頑張らないとな!」
―――任せてくれるんだな?
並走しながらこちらへ向いた目が、そう問いかけていた。
軽く頷きを返してやる。
当たり前だ。
「よし、じゃあ速度を上げるぞ。付いてきてくれ」
「すまんな。本来、黎殿だけなら直接ジュデッカまで飛べるんだろうが...。
流石に地獄の中を転移するには私では格が足りんから、走るしかないのだ」
「お前で格が足りないとか言っちゃうのか!?」
そもそもよく考えたら、生きた人間が当然のような顔をして冥界まで転移してきたことにびっくりだよ!と黎は言った。
「......しかしあでりー。お前、足速くないか?」
しばらく走っていると、黎が訪ねてきた。
何ぞ、と思ったが、確かに。
普段は走るどころか、酒場からほとんど動かんからな、私は。
「星の中心。つまり霊脈に近づけば近づくほど魔力が強化される身体なんでな。冥界まで来てしまえば、地上よりも遥かに出力が出せる。出力だけでざっと5倍から10倍くらいだな」
「まじかよ...」
え?地上より強化されんの?あれが?
呆然とぼやいた黎の言葉を、私は聞こえなかったことにした。
「まず滞在許可を取らんとな」
走りながら私が言うと、何言ってんだこいつと言う顔を黎がし始めた。
「何言ってんだ?このまま走っていくぞ」
きょとん、とした顔でとんでもないことを言い出す。
「馬鹿を言え。私はまだ亡者ではないのだから、ビザを取らんと後で閻魔殿にしこたま怒られる」
「......あっ、忘れてた......」
人をなんだと思っているのだろうか、このうっかり死神は。
「ええと...それなら、閻魔に謁見して事情を説明だよな。それで一時ビザ発行してもらって...やっぱ走っていくしかないか...。順番待ちになってないといいんだが...。ああもう、地上に戻る前にアポイント入れておくんだった!」
どうやら、冥界も今はずいぶん便利になったらしい。閻魔に会うのにアポイントとかできるのか、と妙な感心をしてしまった。
ぶつぶつ、と確認するように口にしながらも、全く足を休めることなく走る黎。
冥界へ向かう魂たちが、高速で疾走する私たちを見てぎょっとした顔をしていたが、気にしてはならない。
地面すれすれの低空を高速で飛ぶ死神。
それ自体はさして珍しい光景ではないが、これを追いかけるように占い師の格好をした白ローブの女が爆走しているのだ。
何事かと思うだろう。
...しかも仮に死者だとしても、ここまで全力疾走で冥界へ向かう奴がいたら。
それは現世への未練を振り切りすぎじゃなかろうか。
死ぬのを待ってスタートダッシュでも切ったのだろうか。
折角だ。ぜひ、冥土の土産話にしてほしいと思う。
さて、とぼとぼと歩いていく魂たちを唖然とさせながら、どんどん奥へと進んでいくと、ようやく遠目に長蛇の列が見えた。
「おいおいおいおい!この長さだと...ええと、あの岩のあたりで1ヶ月待ちだから...3ヶ月待ちじゃねえの!?」
ぎょっとした顔をして頭を抱える死神。
ある意味とてもレアな光景ではあるまいか。
比較的、酒場ではよく見かける気がしないでもない。
「また随分並んでいるな...」
「くそ、どっかで戦争でもあったか...」
「タイミングが悪いな。どうする?」
まぁ、実のところどうするとこうするもないのだが。
「取り敢えず最後尾まで走る」
「だよなぁ」
最後尾まであと少し、という距離まで来た時、ふと横合いから大きな声が聞こえた。
「黎!それとアデリーナちゃん!ご無沙汰してます!」
ーーーーにこにこと。
こちらに手を振る、閻魔だった。
―――いや、何でこんな所にいるのだ、あの御仁は。
「げぇっ!閻魔!?なんでこんなところに!」
同じ感想を抱いたらしい隣の死神が、鳥を締めた際に発する断末魔のような声を上げる。
「アデリーナちゃんが久しぶりに来るってルシファーくんから聞いたのだ。だから迎えに来たのだよ」
「閻魔が!?直々にお迎えに来んのか!?」
はぁっ!?と驚愕に顔を染める黎。
そりゃあ驚く。
私も驚いたし。
「そう言えばお前は知らんのか」
「何を!?」
「アデリーナちゃんが100年がかりで冥界の食事改革してくれたんだぞ?」
「そんなこともあったな。ご無沙汰だ、閻魔殿。あ、これ地上のお土産だ。口に合うと良いのだが」
「おお!これはかたじけない。アデリーナちゃんの料理は美味しいからなあ。私、あの食堂改革以来、地獄風パスタの大ファンなんだよ」
「そう言っていただけると、頑張った甲斐があるな」
「ええ!?あのパスタお前が考えたのか!?」
め、冥界の母の味が......え?
ってことは、あでりーが冥界の母なのか......?
衝撃を受けた顔をしてぶつぶつと呟く黎をよそに、閻魔が懐から小さなカードを取り出した。
「おっと、いかんいかん。それでこれが冥界ビザね。私の印が押してあるから、どこの冥界でも永久無効だよ。アデリーナちゃんなら大丈夫だろうけど、失くさないようにね」
はい、と手渡された小ぶりなカードを、私は胸元にしまい込む。
「有り難く頂く。いや、忙しい閻魔殿にわざわざ準備いただいて申し訳ない」
「いいよ、久しぶりに顔を見たかったからね」
「ははは、落ち着いたらまたお茶でもしに伺うとしよう」
「それは楽しみだ。では、気をつけて行ってらっしゃい。そっちからいくと近道になってるよ」
「ありがとう。では、また」
閻魔に手を振って別れ、示された方向に少し走ると。
「連絡通路 Staff only 」と書かれた扉を見つけた。
「えぇ...こんなのあったのか...」
先程から何か衝撃でも受けたかのようにぶつぶつと言っている黎が、額を抑えていた。
彼にしては珍しく、さっきから頭を抱えたり叫んだりとせわしない。
「ええい、ともかく行くしかないな!」
どうやら覚悟を決めたらしく、がちゃり、とノブを捻る。
ーーー扉を開けると、そこは地獄だった。
「直通ドアなんてあるのかよぉ!!」
黎が頭を抱えて絶叫した。
「私も初めて見たな、このドア」
思わず、まじまじと見てしまう。
明らかに時空的な連続性が保たれていない。
本来、閻魔のいる冥界の入り口から地獄までは、昏い森を抜けて行かなくてはならないはずなのだが。
確か、過去に冥界に迷い込んだときは2,3日ほど森の中を歩き続ける羽目になったのを覚えている。森を抜けるとようやく地獄の門があり、当時の私はそのあたりでルシファーの使いに拾われたのだった。
故に、冥界の入り口付近から地獄の...振り返ると地獄の門が遠目に見えるので、地獄までの直通のドアというのはあり得ないはずなのだが。
「もしかして最近行き来がめんどくせぇって溢してたから...作った?」
冥界って意外と先進的だよなぁなどと考えていると、どたどたと足音が聞こえてきた。
今度はなんだ!?と黎が身構える。
しかし、なにやら自分の知っている冥界との落差にクラクラ来ているのか、しきりに目をこすったり首をひねったりしている。
「アデリーナさん!お久しぶりです!」
手を大きく振りながらこちらへ駆けてきたのは。
ーーーー地獄の門番、ミーノスさんだった。
「なんでお出迎えなんだよ...ミーノスが...地獄の門の番人だろうが...」
ついに黎が遠い目をしはじめた。
「おいどうした黎。アデリーナさんの前で失礼だろ」
「ミーノスお前なんで今日そんなに腰低いの!?」
「アデリーナさんだから?」
「お前もっとこう......もっと威厳あったろ!」
「いやだって。ワシが子供の頃に遊んでもらったりした恩人だし......」
「子供の頃なんてあったのかよ!!!!」
「え?そりゃああるだろ。何言ってんだお前」
ミーノスさんに真顔で突っ込まれる黎。
「ふぐぅ!?なんで俺が悪いみたいになってんの!?」
むぎゃー!と頭を抱え、このままじたばたと転がりだしそうなほど取り乱している黎。
実はこれが地元でのキャラなのではなかろうか、彼。
「あ、そうそう。この圏は無駄に広いんで、この地図使ってください」
「お、これは助かる。ありがとう、ミーノス殿」
「いやいや、アデリーナさんのお役に立てて嬉しいです」
「また今度、遊びに来るよ」
「はい、是非!」
地図あるのかよ...と、またしてもカルチャーギャップに顔を青くする黎を他所に、我々はどんどん走っていく。
手を振って見送ってくれたミーノスは、もうすっかり小さくなって見えた。
第一圏 リンボを駆け抜け、第ニ圏、第三圏と、黎の先導の元どんどん下っていく。
第二圏 愛欲者の地獄では、気を利かせてくれたのか、空調(荒れ狂う暴風)が我々の周辺だけピタリと止み。
第三圏である貪食者の地獄では、地獄の番犬ことケルベロスたちが寄ってたかって尻尾をぶんぶかと振ってじゃれついてきた挙句、背中に乗せられてひとっ飛びで通過。
特に、首にスカーフを巻いた個体の歓待ぶりが凄まじく、私は顔をよだれまみれにされるという珍事が発生した。
そう言えば、ずいぶん昔に虐められていた仔犬のケルベロスを助けた際、ずいぶんと懐かれて、別れの際に首にスカーフを巻いてやったっけ、などと懐かしんでいたところ、黎は顔を引きつらせていた。
その後もどんどん下っていくが、どの層に入っても、大抵は獄吏や階層支配者が笑顔で待ち構えていて、私たちの地獄めぐりをサポートしてくれた。
「流石にルシファー殿に呼ばれると話が早いな。大した歓待ぶりだ。...どれだけ人徳あるんだあの御仁」
走りながらそう言うと、黎は疲れた顔をして呟いたのだった。
「...普通はルシファーに呼ばれただけじゃこんな歓待されないからな?」
俺よりあでりーの方が実家感出してるじゃねえか...とぼやく。
そう言われても、仕方なかろう。わりとここにいた期間が長かったのだから。
しばらく無心で走り続けただろうか。
飛ぶような速度で走りながら、どんどん階層を奥へ奥へと下っていく。
やがて、凍った巨大な湖が見えてきた。
「あれがルシファーが座す『コキュートス』だ」
「あぁ。一気に第四淵まで飛び降りるぞ」
「ジュデッカまで飛び降りんのか!?俺はともかく、大丈夫なのか?」
ぎょっとしたような顔をしつつ、こちらを気遣うあたり、やはり人が良い。
しかし、気遣うならそもそも地獄になど連れてこないでほしいものなのだが。
常人ならここにたどり着く前に死ぬぞ。
とはいえ。
「多少大丈夫でなくても、今は時間が惜しい」
「はー...分かった。ほんと度胸あるなぁ...」
そして、私たちは一切の減速をしないままにコキュートスへと踏み込む。
黎は飛べるため、直接降下は容易いのだが。
一方、羽根もなければ飛行能力などという人間離れした力を持たない私はというと。
「――――よい、しょっと!」
壮絶な閃光と爆音を撒き散らしーーー
ーーー跳んだ。

魔力を爆発させて、ほとんど吹っ飛ぶような勢いで跳んだ。
流石に、ノーガードでそんなことをすれば一瞬で四肢がばらばらになりかねないのだが、時間短縮のためにはリスクを背負ってでもやらざるを得なかった。
無論、きちんと身体の保護のために幾重にも防壁を組んでから実行に移したが、防壁が9割方ぶち抜かれ、自分でやっておいてなんだが、肝が冷える。
激烈な加速感に、一瞬意識が飛びかける。
しかし、意地で意識を繋ぎ止める。
こういう時、実は気絶した方が楽なのだが、今はそうも言っていられまい。
なにせ、気を失ったらそのままジュデッカの氷と激突して死ぬだけだからだ。
吹き飛んだことで崩れた姿勢をうまく整え、着地点であるジュデッカを目掛けて落ちていく。
地獄の最下層である第九圏『コキュートス』。
そのさらにその最奥部であるジュデッカまで、一気に。
つまり、第一淵から第三淵をひとっ飛びで飛び越し、そのまま最奥部まで落ちてやろうという事である。
さて、流石に普通に着地したら死ぬかな?
地獄の最下層というのは、一個の巨大な凍りついた湖からなる。
全四淵から構成されており、外周部から順にカイーナ、アンティノーラ、トロメーア、ジュデッカと呼ばれ、内側になればなるほど深くなっていく。
その最下層であるジュデッカの奥底にルシファーがいるという按配だ。
故に、一気に湖の中心目掛けて飛び降りたのだが、第四淵ともなれば、深いどころの話ではない。
噂によれば、ほぼ星の中心部にほど近い深さであるとか。
魔術で身を守ろうとした、その時ーーー
「アデリーナちゃーん。そのまま落ちてきてー。受け止めるからー」
下層から声が響いてきた。
どことなく軽薄な音色ながらも、その奥には威厳が潜んでいる。
ルシファーの声だ。
「了解。そのまま落ちるからなんとか受け止めてくれ」
そう言うと、はいよー、と軽い返事が返ってきた。
しばらくの間、ただ落下していた。
この落ちていく感覚というのは、どうにも好きになれない。
自分がどこにいるのか。
浮かんでいるのか、落ちているのかさえ、分からなくなるから。
そして、いよいよ地面―――というか、凍りついた水面が見えてきた。
頼んだぞ、ルシファー殿、と念じながら、思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。
一瞬の後、ぽふ、と軽い衝撃を感じた。
...どうやら無事に受け止めてもらえたらしい。
そっと目を開くと、涼やかな顔に笑みを浮かべた男の顔が目に飛び込んできた。
相変わらず、顔面の美貌で殴ってくる御仁である。思わず目眩がしてしまいそうだ。
「ーーーーーやあ、よくきたね、アデリーナちゃん」

たどり着いた地獄の奥底、全てが凍りつく永遠の氷結宮。
その主人が、笑顔で出迎えてくれた。
「だから!!!!なんでみんなお出迎えなんだよ!!!!」
黎が頭を抱えてのたうち回っている。
どうも、ルシファーが己の居城からわざわざ出てくるという事態は余程珍しいらしい。
「どうしたんだい、黎は?」
「行く先々でみんなに歓待されてな」
「なーるほど?そういえばケルベロスのジャックちゃんと会った?あの子、君が来るって聞いてからずっとそわそわしてたんだけど」
「あぁ、会ったぞ。ずいぶんとまぁ立派になっていたじゃないか。前に会った時は確か、ひ弱ないじめられっ子だったのにな。頑張ったんだな」
「あの子、きみが地上に帰ってからずっと鍛えてたからね。今じゃ第三圏のトップさ」
肩をすくめて言うルシファー。
そこまであの仔犬が強くなった、ということは。
きっと彼の手助けもあったのではないかな、と思う。
「それは驚いた。本当に立派になったんだな。...今度また、ゆっくり会いに行かないとならんなあ」
「それはとても喜んでくれると思うよ。きみ、本当に魔界や冥界で愛されてるよね」
「ここの住人たちからすれば、迷子の野良犬を可愛がるようなものだろうけどな。...それで、頼んでいた件だな?」
「その通り。内容もろくに伝えなったのに、相も変わらずその聡明さは美徳だよね」
ひゅう、と口笛を吹いて、ぱちんと手を合わせるルシファー。
彼がやると、気取った仕草もまったく嫌味がない。
まったく。イケメンというやつはこれだから。
とはいえ、褒められて悪い気はしない。
「褒めても手土産しか出んぞ。今回はパッションフルーツのタルトだ。口に合えば良いが」
ポーチから、明らかにポーチの容積よりも大きいフルーツタルトの箱を取り出し、手渡す。
「わお、これが楽しみだったんだよね。僕は甘いもの大好きなんだけど、ここに居るとなかなか食べる機会がなくてねえ...どれどれ?」
ほくほく、という表情で包みを開き、ぱあ、と顔を明るくするルシファー。
相変わらず、気さくにも程がある。
「あぁ、それでその件なんだけどね。例の悪魔、見つかったよ」
「助かる。場所はどこだ?」
「次元の狭間。どうも大悪魔のひと柱...というか、僕の知らない間に随分と力を貯め込んでいたみたいでね。僕ほどじゃあないけれど、普通には手が出せない程度には力ある存在みたいだよ」
「しかも、また面倒臭い所にいるな...」
「それと、アデリーナちゃん。もう1つの件だけどーーー」
ーーーービンゴだ。
と。
真剣な顔を作ったルシファーは語った。
「やはりか」
私の予想が当たっていたのは、果たして良い事なのか、悪い事なのか。
まぁ、それはこの際置いておこう。
さてどうするか、と私が腕を組んで考え始めた所、ルシファーは黎の方を見て言った。
「だけど本当に運がいいよね、黎くん」
「おい、どこら辺が幸運なんだ。次元の狭間なんて、お前でも手出ししにくいんじゃないのか?」
「その通り!今の僕じゃあそこに介入はできないんだよね、これが」
あっはー、と。
魔界と冥界を統べる、神のごとき悪魔は、ぺちぺちと額を叩いて笑う。
「駄目じゃねーか...」
おいどうするんだよ...。
死神は肩を落としてため息をつく。
しかし、当のルシファーは、俄かに顔つきを真剣なものに切り替えた。
「だけど、君たちには『アデリーナ・ミューゼル・ブルー』というカードを手にしている。そうだろう?」
「どういう事だ?」
きょとん、とする黎。
話しても?とルシファーが目で語りかけてきたので、ひとつ頷いてやる。
すると、彼は嬉しそうに「にへら」と笑い、芝居がかった動きで両手を広げ、歌うように語る。
「アデリーナちゃんなら可能ということさ。異次元?次元の狭間?そんなのは彼女にとって関係がない。『星』という土台の上に乗っている存在であれば、世界の外側だろうが、彼女の眼が、そして手が届かない場所なんて―――どこにもないのさ」
だろう?とウインクを一つ。
まったく、本当にいちいちこういう仕草がよく似合う御仁だ。
「...まぁ、不本意ながらそうなるな。大まかな座標は?」
苦笑いしながら私が水を向けると、彼は懐から一冊の手帳を取りだした。
そういえば、この御仁は言動とは裏腹に、異様にマメな人物なのだった。
初めて出会った頃から、数千年に渡ってずっと、お歳暮や暑中見舞いのやり取りをする程度には。
「ええと...あったあった。その悪魔はね...」
魔界の、そして冥界の主は語る。
その後、ルシファーと2,3打合せをしてから、彼に送ってもらって地上まで戻ってくることができた。
場所はピンポイントに酒場前の路地だ。
よくもまぁ、他人を送るのにここまでピンポイントで場所を指定できるものだと、かの御仁の技量につくづく感心させられる。
冥界へ行くたびに思うのだが、戻ってこれなくなるのではないかと、その心配が無い身体ではあるのに思ってしまうあたり、まだまだ私も未熟なのかなと思う。
さて、あまりのんびりしてもいられない。
出かけたのは昼ごろだったが、移動に時間を食ってしまったため、既にもうとっくに日は暮れていた。
酒場のドアを押し開け、中へ身を滑り込ませる。
いらっしゃいませ!と、可愛らしい声が掛けられる。
あぁ、今日は厨房に立っているのか、と思いつつ、片手を挙げて挨拶を返す。
さて、手はず通りであれば、彼らがいるはずだ。
「やあ、あでりー嬢」
白髪に青い瞳をした悪魔が、こちらに気づいて片手を挙げる。
それを皮切りに、同じテーブルで飲んでいた面々がこちらに気付き、次々と挨拶を投げかけてきた。
「おや、あでりーはんやないの。こないな遅い時間にどうしたんかえ?」
「あでりーちゃんだ!こんばんは!」
「こんばんは、占い師さん。スピカちゃんからメモを受け取ったけど、これでよかったのかしら?」
どうやら、出がけにスピカに渡しておいたメモはきちんと届けられたようで、狙った通りの面々が揃っていた。
「やぁ、こんばんは。アミ嬢には急な頼みごとをしてすまなかったな」
「あらあら、どういたしまして」
役者は揃った。
今回地獄までひとっ走りしてきた私と、黎。
ヴォルグ、雪華、蜜柑、エイミーナ――――

そして。
「あでりーはん、おかえり。もう用事は片付きましたのん?」
気丈に振る舞ってはいるもののーーー。
ーーー少し、いつもよりも気落ちした顔をした朔が、相も変わらずいちご牛乳を啜っていた。