8話 「契約書」
つい、と写真の上を撫でるように指を滑らせていた彼女が、ヴォルグの写真の上で指を止めて言った。
「そういえば、悪魔の人って、もう一人いましたよね」
もう一人?...あぁ、彼にくっついていたアレのことか?
「意外と自己主張が強くて、いつも宿主と喧嘩していましたねえ」
あれはあれで賑やかで良かったと思うがな。
それにしても、そう考えるとあの酒場、悪魔が二人もいたのか。
「天使は一人もいませんでしたねえ」
どちらかというと、死神だの悪魔だの、聖なるイメージの連中は居なかった気がするがな。
「私がいるじゃないですか。神樹ですよ?」
あー、はいはい。そうだったな。
「もう!さて...ええと、どのあたりでしたっけ?」
「んんん...?」
珍しいこともあるものだ。
普段、どちらかといえばテーブル席に腰掛け、皆の様子を呆れたような、楽しいような様子で眺めているカウが、珍しくカウンターに座り、唸っている。
その隣では、ヴォルグが何か、紙のようなものを指差しながら解説しているようだった。
珍しい、を通して、どういう取り合わせなのか。
お互い、カウンターの上には酒も置いておらず、紙とペンを広げているようだ。
「つまり...ん?こういう事か?」
「いや、そこの解釈はこうなる」
我ながら悪趣味な事だよなあ、と思いながらも、少し気になる。
「やあ、お二方。こちらに座っているのは珍しいな?」
私が声をかけると、ようやく彼らは顔を上げた。
「ああ、あでりー嬢か」
「ん、あでりーさんか。こんばんは」
「おや、ヴォルグ殿が眼鏡を掛けているとはまた新鮮だな?…それで、紙など広げて一体どうした?」
「ああ、カウ殿がな」
銀縁の細めな眼鏡を掛けたヴォルグが、カウを手で示した。
こうしていると学者然としているな、この男は。
「あーっと...なんだ、その。この町に留まる上で、ずっと宿暮らしもなんだから、部屋でも借りようと思ったんだが...」
「ずっと旅暮らしだったから、契約書の読み方が分からんようでな。専門家として助言していたのだ」
「専門家...?ああ、なるほど」
悪魔は、契約には忠実だものな。そりゃあ、契約書には詳しくもなるか。
「とはいえ、当たり前の事しか書いてはおらんようだし、問題はないと思うがな」
ケケケ、と。
嘲笑うような声が聞こえた。
「ん?あぁ、ラーヴァか」
「ダカラ言ッタダロウガ!俺カラ見テモ問題ネエッテナ!」
カウの尻尾のようにくっついている、炎の悪魔ことラーヴァだった。
「...ま、契約の専門家二人がそういうなら、まぁ、大丈夫なんだろうがな」
はあ、と溜息を吐き、ペンを置く。
「とはいえ、自分で理解できるに越したことはないだろう?」
ヴォルグが笑った。
「隣、失礼するぞ」
私は断ってカウの隣に腰掛ける。
そういえば、彼の過去というのは聞いたことがない。
村を焼かれ、ラーヴァと契約をしたという程度だろうか。
ラーヴァがちょっかいを掛けてくるのを、片手で押し返しつつ、問うてみた。
ほんのり熱い。
「カウ殿はラーヴァと契約しているのだよな?」
「オウ!俺ガ目ェツケタンダゼ!」
「お陰で村は焼かれるわ、契約を迫られるわ、右目も焼かれるわで散々な目に遭った」
ほんのり熱い。
疫病神め、と。
ぼやきながらラーヴァの頭を思しき場所を軽く叩く。
「ラーヴァは何故、そこまでしてカウ殿に契約を持ち掛けたんだ?」
答えたのは、ラーヴァだった。
「アァ?ソリャアオメェ...」
しかし、そこで詰まる。
「アー、ナンダ。ソウイウ話ハ...マ、ソノウチナ!」
「何だ、誤魔化すのか?」
ヴォルグがにやにやと、厭な笑みを浮かべてラーヴァを揶揄う。
「ソノウチダ、ソノウチ」
ラーヴァはけたけたと笑った。
カウに目をやるも、彼は彼で何か考え込んでいる様子で。
「うーん。まぁ、俺も契約させられた理由なんかは良く分かってないんだ。コイツが口を割った時は、ま、皆にも聞いてもらうとするよ」
苦笑いしてカウが言った。
「そういや、ヴォルグさんに聞きたかったんだが」
「何だ?......おいティポ。キールを頼む」
「あ、俺はエールを」
「私はウィスキー。銘柄はお任せで」
はーい、と厨房から返事が返ってきた。
暫くして、三人の前には注文したアルコールが並んでいた。
「ま、話を聞かせてもらう側だし、今日は二人とも俺が奢るよ」
「ほう、殊勝な心掛けではないか。有難くいただくとする」
「ん?私も良いのか?」
「あでりーさんには、前払いだと思ってほしいかな」
「分かった分かった、飲んだ分ぐらいは話を聞いてやる」
「んじゃ、乾杯」
オレノブンハ!?と騒ぐラーヴァに「飲ませれば話すのか?」とカウが問いかけたことで、ラーヴァは沈黙。
悪魔を軽く放置した3人は、グラスを軽くぶつけ合わせた。
「それで?何が聞きたいのだ」
くい、と軽くグラスを呷り、唇を湿らせたヴォルグが問う。
「悪魔の契約ってどういうものなんだ?俺はラーヴァとの一方的な契約しかしたことが無いから、良く分かってないんだが」
「成程。我々の契約か」
そうだな、とヴォルグは呟く。
「我々、悪魔は基本的には契約に縛られる、というのは知っているな?」
ああ、とカウは頷く。
その片目が、ちらりとラーヴァを見た。
「悪魔というのは基本的に契約に誠実なのだ。契約に背く行動はできん」
「へえ、意外だな。悪魔の契約書...なんて言うぐらいだし」
「悪魔の契約書、と言われるのはな、契約内容自体が「不可能なもの」を指すのだ」
くつくつ、と喉を鳴らし、ヴォルグが語る。
「例えば、「億万長者にしてくれ」という願いがあったとしよう。それに対して、我々悪魔が持ちかける提案はこうだ」
――――「西から日が昇ったら」お前を「億万長者」にしてやろう。
とな。
「つまりは、実現するはずのない事象を引き合いに出し、かなうはずのない条件を設定してやる。もし、それが実現したなら、悪魔は万難を排してでも億万長者にするために動くぞ?」
誠実だろう?と彼は語る。
「うへえ、それじゃあ、悪魔の契約書...てのは」
「成程?その条件を極めて目につきにくくする、或いは「実現できそう」と思わせると」
「その通りだ。だからこそ、契約書というのはきちんと読めなくてはならんのだ」
――――幸いにして、そこの悪魔は、そんな無茶はしなかったようだがな?
牙を見せるように、悪魔は笑った。
「うええ…もう一度契約書読み返すか…。残りの眼も焼かれちゃたまらないぞ」
嫌そうな顔をして、また契約書を取り出し始めたカウをみて、我々二人は笑うのだった