7話 「名前」
「そういえば、あの酒場、いろんなものを引き寄せていましたけれど」
私がパンケーキの余りで作ったクッキーをかじりながら、彼女はふと思い出したように言った。
「邪神さんが来たこと、ありませんでした?」
そういえばそんなこともあった。
そもそもあの酒場は、おかしなものを引き寄せる性質がある。
おかしなものを、というか。
おかしなものしか引き寄せないのだ。
だから、その中に邪神がいても、何ら不思議ではなかった。
―――そういえば、あったな?
「ふふ、しかもあでりーさん、あの邪神さんを殴ったんでしょう?」
あぁ。例の邪神が来る前に、一度殴りに行ってひどい目に遭わされたものだ。
確か、脇腹辺りをごっそり抉り取られたんだったか。
「ありましたねえ。あの時、私も初めてビームを撃ったので、よく覚えてるんですよ」
あったなぁ、神樹ビーム。
皆が「ビームだ!!」と盛大にはしゃぐものだから、一体何事かと思ったぞ。
「あはは...私も、あそこまで皆さんが喜ぶとは思いませんでした」
まぁ、魔術でもあんな規模のビームはめったにお目にかかれないからな。
「あの邪神さんが来たのは...そうそう、お名前、でしたよね?」
あぁ。彼女はたしか、このあたりに...
酒場で私が一人でのんびり飲んでいたところ、エイミーナがやってきて隣に腰掛けた。
「こんばんは、アデリーナ。昨夜は月が奇麗だったと聞いたのだけれど、見たかしら?」
「やあ、こんばんはエイミーナ」
最近私たちは、二人だけ、或いは周りに聞こえない時はお互いに名前で呼び合うようになっていた。
なんとなく、これまで「占い師さん」「アミ嬢」と呼び合っていたためか、お互いに少し気恥ずかしさがある。
さて。そういえば昨晩は十六夜、というやつで、月が実に綺麗に見えた。
「私も視たぞ。随分と綺麗に見えたものだ」
「貴女がそう言うってことは、綺麗だったんでしょうねえ」
はあ、と頬杖をつきながらエイミーナが言った。
「いつか一緒に月でも眺められると良いのだがなあ」
そうねえ、と彼女は言う。
からん、とドアのベルが鳴る音がして、誰かが店に入ってきた。
「こんばんはー!」
祟の声だった。
彼女はいつも元気が良いな、などと思っていると、続けてアルバも店へ入ってきた。
「こんばんは。昨夜は月が奇麗でしたね」
「あ、それ私も見ましたー!」
「あぁ、皆も見ていたのだな。あそこまで鮮明に月が見えるのは随分久しぶりだったな」
そんなことを話していると。
――――ふと、背筋がぞわりと粟立った。
慌てて椅子から立ち上がる私を、皆がきょとんとした目で見る。
おい、まさか―――ここに何かが乗り込んで来たのか?
随分前に、あの借金取りを通じてここまで踏み込んできた輩がいたと思ったが、ついに動いたのだろうか、と警戒を露わにする。
慌てて周囲を見回す。
気配の発生源は―――――アルバ。
彼女の、いつもは赤い色をしている筈の瞳が、その色を変えていた。
『つい先日、妾を殴りに来た拳闘士はここにおるかの?』
アルバの姿をした「何か」が言った。
その言葉に、椅子を前後にゆらゆらと揺らして遊んでいたユグドラシルの動きが止まった。
何かを感じたらしい。
「けんとうし?」
剣を使う人なら多いけど...と。
近くにいた祟が、首をかしげて言う。
確かに、「剣術士」であればこの酒場にはいるが。
拳闘士というのは初めて聞いた。
素手で戦う者など、滅多にいないのではないかと思うが。
否、それ以前に。
「―――――貴様、アルバ殿ではないな?」
『いるではないかえ。貴様じゃ、貴様』
彼女は、私の方を見て、そう言い放った。
「私か?拳闘士などに心当たりは―――待て。『殴られた?』」
『忘れたとは言わせんぞ。腹に一発喰らわせてやったのだからの』
ほほほ、と彼女は笑う。
「ふむ。成程」
そういう事であれば、心当たりがある。
―――滅ぼしてやったと思ったが。
「生きていたのか、貴様?」
そう。私が『素手で殴った』相手。
そして、「腹に喰らわされた」相手。
思いつく心当たりなど、一つしかないのだから。
「あでりーさん、心当たりあるの?」
祟が聞く。
「...あらあら、占い師さん。ついに転職?と思って聞いてたけれど」
なあに?この匂い。酷いわねえ、と。
不穏な空気を嗅ぎ取ったエイミーナが、敢えて茶化すような物言いをした。
「先日の邪神騒ぎの「あれ」が生き残っていたようだな」
「...っ!」
私がそう言うと、祟がぱっとアルバから距離を取り、構えを取った。
『舐められては困るぞえ。あの程度で完全には消滅などせぬよ』
周囲の反応など意に介さず、からからと笑う。
祟がエイミーナやユグドラシルを下がらせているのを横目に、私は言葉を投げかける。
「全く。神などと云うものは生き汚くて困る。素直に消滅しておけば良い物を」
『ま、貴様のお陰でここまで戻すのに随分時間はかかったがの』
―――――それで? 一介の占い師に、何の用だ?
殺し合いになる、という覚悟を決めて放った私の言葉だったが、邪神は気にせずに笑って言う。
『いや何。この小娘の様子見と―――ちっとばかり貴様と話をしようかと、の』
「ほう?珍しいこともあるものだ。わざわざ言葉を交わすか」
邪神のような存在と言葉を交わすというのは、一歩間違えれば致命傷を招く事態となる。
それそのものの『言葉』が力を持つからだ。
だから、私は魔力を練り上げながら、一歩前へ進み出る。
エイミーナたちを庇うように立った祟が、血霧を使い、武装を整え始めた。
先程までは泰然と笑っていた邪神だったが、流石に不味いと思ったのか。
少し慌てた様に、手をぱたぱたと振って言い出す。
『待て待て。今争ったところで、こやつが傷ついて消耗するだけなのだがな』
邪神はそう言って、自らの身体を指し示した。
―――それは無論、アルバの身体だった。
―――ちっ。これだから神は嫌いなのだ。
魔力を引っ込め、私はテーブル席の椅子を乱暴に引き、座り込む。
「仕方あるまい。たた嬢、ずまんが酒を持ってきてもらえんか」
「へ?...あ、は、はい!」
「神様なら、「おもてなし」は必要よね。うんうん」
私の言葉に、祟がぱたぱたと慌てて駆け出す。
エイミーナはエイミーナで、何かに納得したのか。こくこくと可愛らしく頷いていた。
「貴様も座れ。立ち話で済ませていい内容でもないのだろう」
『ほほ、話の分かる剣闘士じゃの』
私が着席を促すと、彼女は私の正面に腰掛けた。
「だから私は占い師だというに...」
ぼやくが、邪神は「ほほほ、聞こえんな」と受け流した。
よほど殴られたことを根に持っているらしい。
しばらくすると、祟が、私のお気に入りのボトルとグラスを持ってきてくれた。
「有難う。...ほれ、貴様の分だ」
『気が利くの』
グラスを受け取った彼女は、揺れる琥珀色の液体を興味深そうに眺めたあと、口を付けた。
『人の子が作る酒はやはり良い』
「それはどうも。...それで?話というのは何だ」
『まぁ待て。それにしてもここは――――』
その瞬間、酒場のドアが「ばん」と大きな音を立てて開いた。
そして、立て続けに聞こえてきたのは―――。
「ズンドコズンドコ」
こんばんは!!!!!!
訳の分からないダンスを踊りながら、楽し気な様子で入ってきた、コハクの声だった。
無駄に勢いがあった。
『...』
「...」
この男、一体何をしているのだろうか。
邪神と私の気持ちが、何故かこんなことで一つになってしまった。
『...ぷっ、ははは!全く、ここは賑やかで良い場所じゃな?』
「なんだ、その...すまない。今日は何かおかしいのが踊っているが...」
何故だろう。いつもであれば気にも留めないコハクの奇行だったが、今は無性に恥ずかしくなってきた。
面白い身内を、近所の人や知り合い程度の人に見られてしまった時のような感じである。
私はどういう顔をすればよいのだ。
しかし、分かったことが幾つかある。
この邪神が、すぐに事を構えようという気はないという点。
また、この邪神はどうもこの酒場をがお気に召している様子、という点。
「え?俺何か不味い事しちゃいましたかね、師匠」
「あー...いや、何と言えばよいのだろうな」
『くはは、妾は気にせんよ』
「すまん...」
「...コハクさん、コハクさん。今、大事なお話してるの」
だから、しーっ、ね?
ユグドラシルにそう言われたコハクは、「うわあああすみません」等と言いながら隅へと寄っていき、小さくなっていた。
「それで、邪神が直々に何の用だ?」
『この娘の事でな。ひとつを除き、そろそろ手を放しても良かろうと思ってな』
「―――ほう?それは一体、どういう風の吹き回しだ?」
『ちと、長くなるが』
「構わん―――いや、まさか邪神と飲み話なぞする羽目になろうとはな」
『かか、貴重な機会だぞ。楽しめばよい』
「...ま、そうさせてもらうさ」
そう言ってやると、彼女はグラスで唇を湿らせた。
『まぁ、先程も言ったが。以前、貴様に派手にぶん殴られたじゃろ?』
「ああ、しこたま殴ったな?」
そもそも何故まだ生きてるのだ、貴様。
『「様子見」であそこまで殴られるとは思わんかったぞ。ほんに、何者じゃ貴様』
「私の周辺で事件なぞ起こすからだ。それに、こちらとて久々に死ぬかと思ったのだぞ」
『妾の知る占い師は素手で邪神を殴るような輩ではなかったと思うがの』
心底嫌そうな顔で邪神が呟いた。
「......うわぁ、うわぁ師匠、邪神と渡り合ってるよ......」
コハクがぼそり、と呟いた声が聞こえた。
「よく考えなくても、邪神を殴ったって聞こえたわよね」
祟が続けた。
「くすくす...占い師さんならそのぐらいはやりそうよね?」
エイミーナは、楽しそうに笑っていた。
邪神は続ける。
『仕方なかろうて。この娘を預けても良い場所やら、人の選定をしておったのだから』
「――――おい、何だと?」
『貴様は耳が遠いのかえ?年ではないか?「この娘を預けても良い場所と人の選定をしていた」と言うたのじゃ』
年の事は兎も角。
それでは、まるで
「まるで保護者みたいな言い方ですね」
祟が感想を口にした。
「それにしては随分過保護なようだけれど?」
エイミーナが、首を傾げながら言う。
「いや...であれば何故、アルバ殿に呪いなど付けたのだ」
『そう急かすな。今から話してやる』
「分かった分かった。聞いてやるから全て話せ」
『さて、遡れば...もうどれほど経つかのう。ひぃふぅみ...4、50年ほどかの?』
邪神が指折り数える。
本人の弁によれば――――50年程度、前の話。
『妾がこやつを見つけたのは、あの森の奥深い場所じゃった』
「森、ねえ...」
『あの森は比較的な狂暴な魔物の類が多くての。たまにふらりと狩りに来た人間が帰らんなんてことは、ま、良くあることじゃな』
「確かに、還らずの森は魔物がかなり強いですからね」
ユグドラシルが言う。
「そうだろうな。深く、やたらと魔力やら何やらと渦巻く、ある種の吹き溜まりのような場所だ。然もありなん」
私の補足に、彼女は一つ頷いた。
『ま、そうであるがゆえ、妾にとっては楽園のような場所での』
ともあれ、そんなところでの、こやつを見かけたのじゃよ。
邪神は語る。
「邪神からしたらそうだろうよ。だが、そもそも人が踏み込めるような場所ではないだろう、あそこは」
『だからまぁ、妾もこやつを見かけたときに驚いたぞ。しかも、一人で彷徨っていたからの』
『よほどの死にたがりか。はたまた何も知らんのか。兎も角、妾も気になってのぅ』
「神の気まぐれという奴か」
『左様。...そして、妾が眺めておればこやつ、中々に奮戦しよるのな』
「まぁ、腕の良い狩人だしな」
「そうねえ」
エイミーナが頷く。確か彼女は、アルバから獲物の一部のおすそ分けを貰い、猫たちに与えていたことがあった。
『だがまぁ、血の匂いにつられて次々に湧いてくる魔物共に囲まれてのう』
「必然だな」
『あとは察しの通り、ボロボロじゃ』
「ふむ。そこを貴様が拾ったと?」
『その通りじゃな。強い人の子は嫌いではないのでの。あとはもう、本当の気まぐれじゃの』
「まるで野良猫か何かみたいねえ」
エイミーナの言葉に、邪神が頷く。
『妾からすれば、人も猫も大差ないよ。...それで、倒れ伏し、息も絶え絶えのこやつに聞いたわけだ』
邪神は問うた。
一人で来るとはまた無茶なことをしよる。何故に此処へ来たのだ、と。
彼女は答えた。
天からの迎えなら早く連れていけ。そうでないなら助けろ。と。
『とんだ言い草じゃよ、まったく』
「若い頃は尖っていたと言うしな、彼女」
『尖りすぎじゃ。ボロ雑巾が何を生意気に、と思ったが。どうせ拾ってしまったのでな。死なん程度に治してやることにしたのじゃ』
「案外優しいのね?」
「実に意外だな」
『ふん、黙っとれ。だが、ちっとばかし問題があった』
妾の「治す」は万能ではないのだ。
彼女は語った。
それなりの対価を受け取らなければ、一時的なものでしかないのだという。
であれば。
その対価というのが、彼女の
「―――名前、ということか」
『察しがいいの。そういうことじゃ』
だが、と彼女は言う。
『しかし、妾は邪神じゃ。自分で言うのも何だが、妾は何をするにしろ―――余計なものがくっついてきてしまう』
「...解せぬと思ったのだ。名を対価に支払ったにしては」
どうみても余計なものが憑いている。
「人格が不安定な時があったな。あれはそれが原因か」
『そうじゃ。中々に面倒をかけてしまったようじゃの。謝りはせんが』
「捻くれ者ねえ」
エイミーナが頬杖をついて溜息を洩らした。
「おい。おい貴様...。それならそうと、殴りに行ったときに言わんか貴様」
『貴様が言うか。ちっとも聞く耳を持たんかったろうがい』
「ははは聞こえんな」
思わず、乾いた笑いが出てしまう。
「大体、あなた魔物の群れまで差し向けておいてそれはないでしょうに」
祟が、あの晩のことを思い出したのか、胡散臭い物を見る目を向けた。
そういえば彼女は、あの騒動の晩に酒場に流れ着いたのだったか。
『ん?魔物は妾の差配ではないぞ』
「え?」
「ほう、あちらは貴様の関係ではなかったのか。亜神なぞうろついていたがために、貴様の所までたどり着くのに難儀したのだが」
『...ん?貴様亜神も滅ぼしたのか?』
「邪魔だったからな」
『現代に神殺しなぞ存在するとはのぅ...。そもそも、そんな事をする余裕なぞありはせんかったぞ。貴様に殴られてそんな気力が残るか、戯け』
「狙いすましたようなタイミングで魔物が来たのに?」
しかし、祟は尚疑惑の目を向けていた。
『妾ははぐれぞ?配下なぞ持ち合わせておらんわ』
「はぐれの邪神なぞ笑い話にもならんわ...」
はあ、と溜息を吐いた私の言葉に、エイミーナが首を傾げた。
「「はぐれ」ってなあに?占い師さん。野良猫のようなもの?」
「ああ。言ってしまえば野良猫のようなものだ。縄張りはあれど、仲間も配下もいない」
「神様もたいへんなのねえ」
『はぐれ事態は非常に少ない。出逢うほうが稀じゃよ』
「そうそう居て堪るか。過労死するわ」
そんなにはぐれ邪神などというものが地上を闊歩していたら、私は本当に過労死しかねない。
『貴様がそんな死に方をするのは是非見てみたいがの...ま、』
「そんな愉快な最期だけは御免被りたいな」
はぁ、とまた溜息が出てしまう。
『貴様らが先程から「呪い」と言っておる「時喰い」じゃがの。あれが妾にできる最大限の「治す」というものだ。妾からすれば加護みたいなもんじゃな』
『まぁ呪いなんだがの』
やっぱり呪いではないか貴様。
『ほほ、邪神にそんな神聖なものが扱えるわけなかろ』
「呪いか、お呪いか、ってね。うふふ」
エイミーナがくすくすと笑う
「上手いことを言うなぁ。まぁ、どちらも似たようなものか」
「そうでなければ死んでいた、しょうしね。彼女」
『そうじゃよ。治しておるんじゃし、加護のようなもんじゃろ』
「加護、ですか」
ユグドラシルがぽつりと呟いた。
『そして、妾は時喰いを与え、妾に会ったことを忘れさせるために記憶を消した』
「なんでわざわざ記憶を?」
「忘れさせたの?...どうして?」
祟とエイミーナが不思議そうに問うた。
「普通に考えて、だが。邪神の本体なんぞ真っ向から見たら、それこそ発狂するからな」
『そういう事だの。あとはまぁ、保身じゃな』
「私が辿れなかったのも、貴様の差し金か」
道理で。
辿っていく際、過去が途切れていると思った。
普通、記憶を消した程度で私が辿れなくなることなどないが、それに神が関わっていたのであれば話は別だ。
『貴様のようなのが湧いて討伐なんぞされては困るからの』
「お前は私を何だと思っているのだ」
『拳闘士』
「占い師だと何度言えばわかるのだ」
『はん、聞こえんの』
まったく、良い性格をしている。
神にしては非常に珍しいことに、どちらかといえば人間味のある反応。
だからこそ、はぐれなどやっているのだろう。
「...それで?先程「一部を除いて」手を引くと言っていたのは何だ?」
『以前こいつを通して話してやったが、妾は人操りに長けた神じゃ』
あ、糸...。と、祟が何かに思い当たったような顔をした。
「ああ、言っていたな。あれは貴様か」
「アルバさんが呟いていましたね」
『そうじゃ。思い出したかの』
「...ということは、だ。貴様、彼女の近辺を探るために人を使ったことがあるな?」
『む。バレておったか』
なるほど。随分前に、コハクを追い回した借金取りはこいつの差し金だったか。
『そんなこともあったのお。あやつのお陰で、ここの内部と"縁"を結び、覘く事ができるようになった訳じゃな』
そもそも、ここの守りが強固すぎて神である妾ですら接触できんとか貴様らどうなっておるんじゃ。
邪神はぼやく。
『しかもあの件に思い当たるのも早いの。一部、というのは『時喰い』のことでな。...やはり貴様に預けるのがよさそうじゃな』
「気付いたのは私ではなく、そこの彼だがな」
隅でちまちまとグラスを傾けていたコハクを指さすと、彼は「あちゃあ」という顔をした。
『え、妾、あんなのに見抜かれたのかや』
邪神は邪神で、いきなり踊りながら入っていた男に見抜かれていたことに愕然とした表情をした。
「あれで切れ者なんだよ、彼」
「それで、『時喰い』を解除しない理由は?」
概ね分かってはいるのだ。
恐らく、死の縁どころか、ほぼ死んでいたのを蘇生に近い状態で復活させたのだろう。
そうでなければ、我々に治療の用意をさせて解除したはずだ。
或いは、先程保身と言っていたように、それがなくなれば私が滅ぼしにかかると考えたか。
そのどちらかだろう。
そして、恐らくこの邪神であれば。
『外すと面倒なことになるからの。死の縁どころか、棺桶に両足を突っ込み、蓋が閉まりかけていたような状態から妾が蘇生したがために、解除してしまうとその状態に戻されてしまうのじゃ』
やはり前者か。
『「時喰い」はな、進んだ分の時間を喰ろうてしまうから、0から事が進まんちゅうものだ。故に、外せば付与した時点まで遡及して巻き戻る』
つまり。
―――――外せば、その時点まで時が遡及して元に戻る。
すなわち、私たちが助けるも何も、我々が「遭う」以前に既に死んでいたという事になる。
それは、この気の良い邪神には選べない選択肢だったのだろう。
『かか、妾の権能では本来実現できんことに手を出したせいで、貴様に殴られた時以上に損耗してな。そのせいで50年もの間、動くことも儘ならんかったわ』
「結構消耗したのねえ」
頬杖を吐いたエイミーナが苦笑がちに言った。
「まぁ、もともと命を助けるためにはできていないのだから、当然よね?」
『察しのよい人間ばかりで助かるわい。...中途半端で捨ておくのも癪だっただけよな』
ふん、と鼻息を吐き出す邪神。
まぁ、気持ちは分からなくもないが。
最後に一つ、と邪神が言った。
「何だ?」
『貴様らに預けるのだ。名前ぐらいは、返してやらんとのう』
...驚いた。
本当に、この邪神はお人好しだ。
救う対価に名を受け取ったというのに、それを返すのだという。
「では訊こう。彼女の名前は?」
『ああ、こやつの名は――――』
――――――アルベリーナ・フォン・テレーゼ。
――――――善意で死にかける大馬鹿者だ。
『頼むぞ。簡単に散らせおったら今度は貴様の胴、風穴程度で済む程度とは思わんことだ』
心配性の、過保護な邪神は言う。
「確かに承った。精々、最後まで見守ってやるさ」
私は言った。
「聖導士であるあたしの前で良い度胸よね」
ふう、と溜息を吐くようにエイミーナが言った。
「酒場のみんなもいますしね」
にこり、と笑みを浮かべた祟が言った。
「ま、ここに居れば早々問題はおきまいよ――――」
「ほほ、善き哉。では縁があれば――――」
―――――なぁ、心配性の邪神?
―――――一言多いぞ、貴様。 ...ではの。
そう、最後まで憎まれ口を残して。
彼女は去っていった。
残されたのは、糸が切れた様に眠るアルバ…否、アルベリーナ。
「ん...んん?あれ、私は...」
暫く経ったのち、彼女が目を覚ました。
「あらあら。おはよう、お寝坊さん?」
「大丈夫ですか?何か飲み物取ってきますよ」
「...おはようございます、皆さん」
少し、寝てしまっていたことに照れたように笑いながらアルバが答えた。
「いやはや、どうなる事かと肝が冷えたが...」
「あら、何かあったのですか?」
ともあれ。
「おはよう、アルベリーナ」
「...え?今、なんと?」
呆然、と目を見開くアルベリーナ。
「あたしのお腹が鳴ったわ。」
「はい、アルベリーナさん、とりあえずお水でっす」
「アルベリーナさん、おはどらしるです」
「え、え...?な、なんで、名前...」
不意打ちにびっくりしたのか、それとも。
彼女はぽろぽろと涙を零す。
「さて...店長代理殿もおらんしな。...何か作ってくるか」
「あ、あでりーさん!私もお手伝いします!」
祟が立ち上がり、手をあげて言った。
「おい祟嬢は座っていろ。厨房を吹き飛ばす気か」
「...はぃ...。で、でも、焼く、煮る以外なら...」
「それほとんど役立たずって言わないかしら?」
エイミーナの一言に崩れ落ちる祟。
「...はぁ、それにしてもこれ、何の匂い?おいしそうな...」
幸せそうな顔をして、エイミーナが言う。
「パスタ作ってるから少し待ってくれ。もう出来るからな」
「アルベリーナさん、皆で一緒にご飯食べましょ!」
「っと...上がったぞ。簡単なもので悪いが、好きなものを取っていけ」
「あたしトマトパスタいただき」
置いた傍から、腹を空かせていたらしいエイミーナが掻っ攫っていった。
流石は猫である。
「全く...懐かしいような夢を見たと思ったら...ふふ、夢なのかしら、これも...」
ぽろぽろと。とめどなく涙を零しながら、アルベリーナが呟いた。
「夢じゃないですよ!...ってあー!あみお姉さまそれ私の!」
「むぐむぐ。もう食べちゃってるわ?...それにしても、そういうことだったのねえ」
「また、また厄介になってしまって...借りはいつ返せるんですか...本当に...」
「あらあら、それならお皿を運ぶのを手伝ってちょうだい?」
エイミーナが、ニコニコと笑いながら言う。
「時間なら、これからいっぱいあるわ」
―――――――「死ぬほど」、ね?