12話 「東方湯殿噺」(前日談)
そういえば、とふと空を見上げる。
雲一つない、快晴。
今考えてみると、雨が降らなくなってから。
いや、そもそも雲すらなくなってから、一体どれほどの時が経ったのだろうか。
――――ゆぐ殿は、雨が降らなくても大丈夫なのか?
思わず、聞いてしまう。
植物というものが地上から絶え、随分と時が経った。
根強く生き残っていたのは、サボテンなどの「比較的水が少なくても生きていける」植物たちだったことを思い出す。
辺りがサボテンだらけになったときは、ちょこちょこサボテンをステーキにして食べていたなあ、と、妙にひもじい思いをさせられたことを思い出した。
しかし、彼女はにっこりと笑う。
「お水はあれば嬉しいですけど、なくても大丈夫ですよ」
―――そもそも、信仰と星の力で生きていますからね。
と彼女は言った。
なるほどなぁ。
感心していると、ぽつりと彼女が呟いた。
「思い出したのですけれど」
なんだ?
「久しぶりに、お風呂入りたいですねぇ...」
あはは、そりゃあ、この世界からしたら最高の贅沢だな。
雨も降らない世界だ。
水を集めるのも、結構な苦労が要る。
不意に、彼女が思い出したようにアルバムを捲り始めた。
そして、あるページでぴたりと指を止める。
「あぁ、これです、この写真。行きましたよね、温泉!」
ふわり、と。
華が開くように、彼女は微笑んだ。
「......旅行?」
酒場でグラスを傾けていたところ、突然カウンターの上を一枚のチラシが滑ってきた。
カウンターの中にいた店長代理殿が、冗談めかして、あちらのお客様からです。等というものだから、思わずチラシの出所に目を向ける。
「にしし、あでりーはんもどや?折角しおり作ったから、ちょっと読んでみてくれん?」
「ん、ああ...」
手許のチラシ―――もとい、表紙に描いてある通りであれば『温泉旅行のしおり』と書かれているそれを、ペらりと捲ってみる。
『酒場主催「温泉旅行」のしおり!』
目を進めていく。
『うちのお爺様に温泉旅館の招待券もろたんで、折角やし皆で温泉旅館へいかへん?』
思い切り手書きと思しき文字が躍っていた。
...ん?もしかしてこれは雪華の字だろうか。
なんというか、そう。
思ったよりも丸っこく、しかも小さい。
随分と可愛らしい文字だった。
「......。」
ちらり、と。
つい視線を雪華に向けてしまう。
彼女はにこにこと微笑みを崩さないまま、さ、どうぞとばかりに、手を差し出すようなジェスチャーをしていた。
が、しかし。
目の奥が全く笑っていなかった。
―――触れるな、という事だろう。
仕方ない。読み進めていくか。
『最上級温泉旅館2泊3日のプラチナチケット!それも人数無制限やから、行きたい人全員で行けるで!』
ほう、それはまた豪気なものだ。
最上級の温泉旅館ともなると、結構な費用がかかるだろうに。
『日付は...』
『参加者は雪華に...』
などと、説明事項が並ぶ。
ふむ。
なかなか悪くないではないか。
ん?いや待てよ。この辺りに温泉が出る土地はあったかな...もしや遠出か?
そして、最後にちまっと描かれた小さな補足事項が目に入った。
『場所:ウチの故郷
所要期間:往復5か月』
思わず口に含んだ酒を噴き出しかけた。
え、今なんて?
思わずどこぞの悪魔のような台詞が口を衝いて出かかってしまった。
この鬼のお姉さん、とてもとても小さい字で、とんでもないことを書いていやがったのである。
「5か月...え、5か月?」
「せやねん。折角、予約が年単位で埋まってて、かつ超高級旅館の一番いい部屋のチケットなんやけど、...行って帰ってくるのに、大体5か月かかるねん」
蜜柑くんが調べてくれたんやで、と彼女は言う。
しかし。
それは、なんだ。
無茶と云う奴ではなかろうか。
しかも、往復5か月ということは、2か月半で行って、2泊して、2か月半かけて帰ってくるという事だろう。
しかも、よく見ればご丁寧に更に小さい字で、「※最短の場合」などと書いてある。
詐欺師の契約書か。
いや、旅の疲れを癒すどころではない。
帰ってきた頃には皆ぐったりしていても何ら不思議ではない。
おいおい...。
そんな感情をこめて雪華を見やるが、彼女は何かを思い出したようにぱちんと手を叩くと、にこやかに言い放った。
「あ、でもティポちゃんは行く言うてたで。なあ?」
なー?と厨房へと声を掛ける。
はい!!!!!!と無暗に力強い返事が返ってきたが、多分読んでないだろう、この一文。
思わず妙な顔になり、雪華へと胡乱げな目線を贈る。
「絶対最後まで読んでおらんだろ、それ」
「にゃはははは」
額に汗を流しながら、笑って誤魔化そうとする雪華。
おい、いいのかこれ。
いや、そもそも本当に行くのか?
私が謎の葛藤をしていると、隣にぴょんを腰掛けてくる者がいた。
「あれ、極東に温泉旅行ですか!私も行きたいです!」
ポノだった。
お前もか。
おい極東出身だろう。どれだけ遠いのか、一番分かっているのではないか?
「ティポさーん!オムライス食べたいでーす!」
流れるようにオーダー。
はーい、と声が返ってくるのを耳にしたポノは、気が早いにも程があることに、もうスプーンを握っていた。
しばらくすると、いつのまにかスプーンを両手に持っていたポノの前に、オムライスが差し出された。
ご丁寧に、ケチャップでハートマークが描かれている。
これはまた。うっかり勘違いしてしまいそうになるな。
差し出された張本人は、「わ、ハートじゃん!」と嬉しそうにしている。
そして、嬉しそうな顔のまま、そこに全く躊躇せずにスプーンを突き立てていく。
後ろで誰かが崩れ落ちたような気がしたが、振り返りはしない。
どうせいつものあれだ。
「ふぉいふぇ...」
「せめて飲み込んでから喋ってくれないか、ポノ殿。可愛らしくはあるが、何を言っているのか聞き取れん」
そういうと、むぐむぐ。ごくん。
「それで、温泉ですよね?行きましょうよ!私温泉大好きなんです!」
にぱ、と。
どこか子供のような、明るい笑顔を浮かべた。
「しかしなぁ、約半年だぞ、半年。往復するだけで半年はさすがに厳しいだろうに」
「ええー。そうかなぁ」
そうだぞ。いや普通に考えて。
私やポノ、雪華のように、ある意味で時間に相当余裕がある面々ならまだしも、だ。
「むー。皆にも聞いてみる!」
手早くオムライスを掻き込むと、栗鼠のように頬を膨らませたまま、ポノがしおりを掴んで飛び出していった。
おお、行動力の化身だなあ。
などと感心していると、こちらも行動力の化身であるところの鬼、雪華が残りのしおりを抱えて飛び出して行ってしまった。
うちも聞いて回ってくるわ!
という言葉を残して。
その後。
暫くのんびりと酒を楽しんでいると、肩を落とした二人が帰ってきた。
捨てられた子猫のような目をしてこちらを見ないでいただきたい。
しょんぼりと萎れたポノと、意気消沈した雪華の二人がカウンターに突っ伏して、地獄の底から響いてくるような「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛......」という声を上げ始めるまでに、大した時間を要さなかった。
「ええー、なんでー?」
口を可愛らしく尖らせたポノが、べったりと机に貼り付いている。
「流石に半年はあかんかったかぁ!せやけど、馬車やら飛空艇乗り継いでも、半年が限界やしなぁ...」
一方、グラスの縁をがじがじ、と軽く噛みながら、雪華が頭をかきむしる。
彼女がこうして悩むというのも、また珍しい姿だ。
よほど、この旅行に入れ込んでいたに違いない。
それにしてもこの二人。
何故わざわざ私を挟んで左右に座ったのだ。
占い師が暇だとでも思っているのだろうか。
...暇だが。
溶けかかっている鬼二人に挟まれ、悩みごとと言うか、目下の問題である移動短縮についてああだこうだと議論されている。
何故私を挟む。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、ヴォルグがフルートグラスを片手に苦笑して立っていた。
フルートグラスには、淡い赤色の液体が注がれている。いつものキールだろう。
「......また珍しいな。どうした?」
「あ、ヴォルグくんやないの。ヴォルグくん...も、まぁ、あかんかったんよなぁ...」
「ああ、先程の旅行の話か」
「せやせや。折角のええ話やから、皆を招待したかったんやけどなぁ」
はー、流石にあかんかったかー。中止や中止!旅行中止ー!と。
雪華は大きく伸びをする。
まだべったりと机に頬を付けてむくれているポノに対し、雪華は早くも切り替えたらしい。
奥で中止という声に気づいた緑のたぬきが、衝撃のあまり大皿を取り落した挙句、足の甲に皿の縁が直撃したらしく、面白い顔になって固まっているのが見えた。
何と言えばいいのか。
あぁ、思い出した。
劇画調というやつだ、あの顔は。
「まぁ、流石に半年近い旅は不可能だろうな」
厨房の奥で起きた悲しい事件に苦笑を滲ませたヴォルグが、雪華の隣にするりと身を滑り込ませる。
「だが、手が無いわけではない」
にやり、と牙を見せて笑うヴォルグ。
その一言に、雪華の顔がぱっと花開いたように明るくなる。
「お、なんやなんや。悪い顔しとるでヴォルグくん。悪だくみかえ?」
「人聞きが悪いな。それでだな...」
こしょこしょ、とヴォルグが雪華に耳打ちをする。
ぱあ、と輝いていた雪華の瞳が、徐々に妖しい色を帯び始める。
獲物を前にした猫の瞳だ、と思った。
そういう、危険な色が宿っている。
嫌な予感がする。
そして、その瞳がぎらり、と輝いた。
その目が、ぐりん、とこちらを見る。
私を捉えて三日月に歪んだその瞳は、どこか嗜虐心のようなものがちらついていた。
「なあなあ、あでりーはん。ちょおっと...お願いがあるんやけど?」
どうやら鬼に目を付けられてしまったらしい。
今日は厄日だ。
私はシンプルにそう悟った。
「で?」
厄介ごとの匂いを感じてそそくさと立ち去ろうとしたが、隣に座る雪華が、がっちりと私の服を掴んで離そうとしない。
「まま、あでりーはん!今日はうちが奢ったるさかい、どんどん飲んでな」
本当に何なのだ。
にまにま、といい笑顔を浮かべる雪華が、私のグラスにどばどばと、景気よく高価なウィスキーを注いでいく。
お、おい。
それはそんなに一気に注ぐようなもんじゃないだろうが。
ひと壜でいくらするか落ち着いて思い出せ。
「......まぁ、頂くが」
「にしし!今日はどんどん飲んでええで!」
上機嫌そのもの、と言った様子で、私が口をつけた傍から酒を注ぎこんでいく雪華。
飲んだ先から補充されていく。
わんこウィスキーというやつだろうか。
急性中毒者を量産しそうだな、とぼんやり考える。
それにしても、この対応。
雪華の向こうではヴォルグがにやにやしてこちらを見ているし、嫌な予感しかしないのだ。
ふぅ、と溜息を一つ。
「で、何をさせようというのだ」
雪華に向き直って、改めて問いかける。
「あでりーはん、聞いてくれるん?」
「怖くて聞きたくはないが、聞かざるを得まい、この状況では」
溜息を吐きながら答える。
大抵、私は酒を奢られれば助言の一つでもしてきているから、今回もそのあたりだろう、と見当を付ける。
「ええとなぁ。皆に話聞いてきたんよ。そしたら皆はん、口を揃えて言うんよ。『半年はさすがに無理だけど、2泊3日の旅行は行きたい』ってなあ」
「ほう、全員がか?」
「全員やねえ」
「全員いってました!」
反対側から、ポノの元気のいい声が聞こえた。
「だからな、あでりーはん―――」
だから。
―――ちょっと極東まで、皆を送ってくれへん?
こう、あでりーはんの転移魔術で!びゅーんとな!
と、何か良く分からないジェスチャーをする雪華。
ああ、成程。
え、それ私が過労で倒れないか?